資産金貸附所

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 【六年】資産金貸附所 明治六年十一月に浜松県によって創設された半官半民的の金融機関であった。本社を浜松(板屋町)に第一分社を中泉(現在磐田市)、第二分社を掛川(現在掛川市)においた。【殖産振興】その意図は「物産蕃殖ノ基ヲ起サンガ為」(「資産金貸附所規則」)で、換言すれば殖産振興のため必要な資金を低利で融資するのが目的で、その運営は県庁役員と県が命じた御用係とが協議してあたる定めであった。御用係には一名五百円の身元保証金を納付させて、本社の気賀半十郎・竹山梅七郎・平野又十郎・横田保平・気賀鷹四郎、第一分社の青山寅平・古沢脩・前島嶼一・金井文平、第二分社に岡田佐平治・丸尾文六・山崎千三郎・松本文治・鈴木九郎治を任命した。いずれも当時の有力な資産家であった。運営の実際は、浜松県庁が保管していた諸種の献金などをゆずりうけ、これを主な資金として貸付を行なった。明治六年にはこの種の献金とか非常用貯穀などの合計高二万七千余円、米百三十一石余あり、このうち貸付高は一万九千七百余円であった。【半官半民より民営】しかし、これもしばらくで翌七年三月政府が従来の半官半民の方針を「却テ私設ノ体裁ニ相改、唯官ニ於テハ濫出浪済之弊患無之様監督保護」に改めるにいたって改組を行ない、八年一月まったく民営に移り、頭取の職が設けられて気賀半十郎が就任することになった。そればかりでなく、資産金貸附所の発想は当時浜松県の官員の岡田良一郎(岡田佐平治の息子、佐野郡倉真村生、大正四年没、七十七歳)の示唆によって報徳の趣法をならったものだったので、貸付金もとかく救荒救貧の面に向けられる額が多く、一般の金融機関に比してやや性格が異なって非営利的の面があった。【経営方針変更】しかし浜松に第二十八国立銀行が設立されるに及んで、ようやく経営方針の変換を迫られるにいたり、ついに二十二年一月に時代に応じて経営方針を変更し、普通銀行業務に移行することに決定し竹山謙三が頭取に就任した。【資産銀行】やがて二十六年二月には資産銀行と改称し、本店は浜松町伝馬一三一番地に移ることになった。資産銀行については別項にゆずる(関七郎『掛川信用金庫創業史』、『静岡銀行史』)。