【オルガン修理 二十年】その発端は、当時浜松の有力者樋口林治郎(県会議員)や木村庫太郎から元城小学校のオルガンの修理について相談をうけていた福島豊策(佐賀蓮池藩士、明治十二年浜松病院長、鍛冶町に開業)が、医療器械の修理を依頼したことのある山葉寅楠を紹介したのが動機であった。そのころ寅楠は板屋町の旅人宿清水屋に止宿していたという。これが機縁となって山葉寅楠は今まで手がけたことのないオルガンの故障の修理に成功し、オルガン製造の自信を強めたのであった。【河合喜三郎】寅楠が福島豊策の後援を得て、浜松池町の小杉屋という錺職(かざりしょく)の河合喜三郎(大正五年十月没)を助手として、喜三郎の宅を仕事場としてオルガン製作に着手したのは二十年(褒賞状には明治十八年とある)であったという。
元城小学校のオルガン
そこで、その十一月ようやく製作し得たオルガンを東京へ運び、音楽取調所(現在東京芸術大学)の伊沢修二所長にこれが審査を依頼したところ、調律は不正確だが、これを修正すれば使用が可能であろうとのことであった。ここにおいて伊沢の好意により音楽理論や調律法を学ぶこと一か月余り、国産品の製作に自信を強めて帰浜した。【仮工場】ときにわが国音楽教育の勃興期で、これをきいた静岡師範学校よりはじめてオルガンの製作の注文があり、それに力を得て旧修道学校跡に仮工場を設けるにいたったのであった。山葉寅楠と河合喜三郎が自作の風琴を天びん棒でかついで箱根山を越す姿は、のちに銅板となって会社の玄関近く建てられていた。二十五年、神戸外国商館の英人モーツリーを通じて、オルガン七、八台をロンドンに輸出し得たのもこうした苦心があったからであった。【ピアノ】オルガンの製作に一応の目途がつくと、多年の念願であったピアノの製作を志した。【三十三年】文部省の委嘱をうけて米国の楽器産業の視察をし、明治三十三年にはじめて国産のピアノの製造に成功した。これには少年工河合小市(明治十九年一月浜松上新町生、昭和三十年十月没、七十歳)のアクション完成が大きな力であったという。オルガンにはじまってピアノの製作を開始するまで、これが会社の創業期であった。
かくて三十六、七年頃より支那に輸出、販路も増してきたので、三十八年に二十四万円に、三十九年には六十万円に増資し、四十四年四月にはベニヤ板および木製品の製造をはじめ大連に支店を設けるにいたり順調な発展をみるにいたった(磯部千司昭和四年版『山葉寅楠伝』。日本楽器製造株式会社『社史』)。