帝国製帽会社

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 【二十九年】帝国製帽株式会社 明治二十九年三月、資本金十万円をもって、気賀賀子治・平野又十郎・気賀敬太郎らによって浜松八幡地(砂山町)に誘致された。前身は東京市下谷区にあった初音合資会社といい、野沢卯之吉と野沢源次郎父子が帽子製造を目的として設立した会社であったが、業務拡張の必要上移転地を物色中であったのを当時野沢組に勤めていた気賀賀子治の口ききで、浜松へ誘致し帝国製帽株式会社と改称したのであった。
 三十一年五月英国製帽技師を招き製作上一新生面を開き、三十二年三月リボン原糸統一の必要上より元城の浜松製糸場を買収し、生糸と撚糸の製造販売も兼営、分工場を設置した。
 
 【フエルト帽】時代の先端をいく産業として発展、四十年に三十万円に増資し、大正五年には五十万円、さらに百万円に増資し、大正末期に年産額フエルト帽子一式二万四千余ダースの九十万円、リボン四千八百クロスヤード十六万円に上り、この年の国内では東京と大阪方面に移出された額は、東京七千五百ダースの九万四千五百円、大阪一万七千五百ダースの二十二万円であった。大阪が多かったのは神戸港から支那・南洋・印度方面に輸出されたためである。大正の初め職工二百七十人、女工二十七人であった。【鈴木仁一郎】社長に鈴木仁一郎があった。