池谷七蔵(安政二年浜松大工町生、大正十一年十月二十二日没、六十八歳)、幼くして父を失い伯父に養われ、明治十八年名古屋鎮台銃工廠に奉職し、その技術を習得したが退職し、その後北遠の各地に居を転じて猟銃(池谷式元折銃という)及び農具の製造改良にしたがった。【形染機械】その七蔵が形染機械の考案に着手するようになったのは、三十一年五月山東に在住時代に染色業に関係のある浜松の知人からたまたま形付は未だ手工で、能率のあがる機械がないと聞かされたのが動機だったという。その結果、三十二年三月専売特許を得たのが特許片面形糊付機であった。さっそくこの機械の製造販売に宮本甚七の出資を得て着手しようとしたが、むしろこれを用いて形染布の製造をするのが有利としてさらに製形機を考案、三十三年一月特許を得て、四月に木綿中形株式会社を元城に組織したのであった。日本形染株式会社と改称したのちも、尚機械の改良に力を尽し三十四年五月には両面形糊付機を発明特許を得ている。【池谷式織機】七蔵はまた織機の改良を依頼されたのを機として同社を退き、三十八年四月天神町村馬込に日本織機株式会社をおこし池谷式織機の製作をしたが、四十四年財界不況のため解散した。その後上京して深川区猿江町に鉄工場を設け諸機械の製作考案に力を尽した。七蔵は発明の天才で、その特許を得たもの前記の形染機のほか氷かき機・変形盆操機械・軽便米とぎ器・ボタン製造機械などがある。