氷砂糖

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 氷砂糖 明治十八年に中村藤吉の出資によって河合伝吉を援助して浜松の常盤で製造を従事したのに始まった。明治三十五年、これを堀内円蔵が氷糖商会の名称で継ぎ、別に中村藤吉は中村氷糖会社を設立、それからは両者の対立となった。【氷糖会社】その後浜松の氷砂糖の名が全国で知られるようになると、大日本製糖会社の斡旋によって両者合同し、大日本氷糖株式会社の設立をみるにいたった。【大正七年】時に大正七年(一九一八)六月であった。以後事業は順調に進んだが、大正十三年六月再び旭日氷糖株式会社(堀内系)と中村氷糖株式会社の分立となった。当時の年産額は両社で氷砂糖五百七十万斤、百六十万円、糖蜜百九十万斤、三十万円に及び、大連・天津・上海をへて支那内地に輸出されるにいたった(大野木吉兵衛『浜松地方における氷砂糖製造業の歩み』)。