曳馬萩筆 万葉集の古歌によって、曳馬野(ひくまの)は萩の名所というところから、三方原(みかたがはら)の萩の茎を筆軸に用いることを思いつき曳馬萩筆と命名、浜松の製筆業者が発売したのがはじまりである。明治の初年には製造業者も数軒あった(高町大明堂、連尺町青巌堂、連尺町松柏堂など)。
【文明堂】現在製造しているのは文明堂のみで、明治二年川瀬為吉(大正四年没)の創業、明治七年浜松名残で発売し、三十八年連尺に移ったという。大正末期生産額五万本以上、価格七千円に及んでいる。
もっとも創案については、浜松池町の筆匠山本伊吉(嘉永元年生)の考案との説もある(『嶽陽名士伝』)。雅趣があり文人たちに愛用されている。曳馬萩筆を唄った野口雨情の童謡詞碑が浜松成子町の法林寺にある。