茶の生産額の伸びたのは明治初年(五年~八年)に茶の値段が騰り、茶一貫匁と米一俵とが同値を呼んだころからで、各村に茶園を開くものが現われ盛況をきたした。しかし、その一面には粗製が行なわれ需要先の信用を失うにいたったので、明治十七年の茶業組合準則の発布となって長上・敷知・浜名三郡をふくむ浜松組合の結成となった。これは二十一年の茶業組合規則によって敷知長上浜名茶業組合と改称された(のちに浜名郡浜松市茶業組合)。初代幹事は樋口林治郎であった。不正茶の検査・製茶伝習所・同研究所・講習会・品評会などの生産改良などにつとめた。しかし四十年ごろになると、ようやく生産費がかさみ収支がつぐのわず、そのため茶園を廃し桑園に転換するものが現われると、共同製造の要がとなえられ各地の共同製茶組合の創立となった。入野村共同組合が結成されたのは四十二年四月で、それ以後、各地の共同組合は年を追って増加し大正時代には十指に数うるにいたった(鴨江・伊場西・東大山・神ヶ谷・曳馬村・阿弥陀・富塚村・三方原大谷・吉野村・入野村)。功労者に気賀林・横田保をはじめ前記樋口林治郎・織田利三郎(浜松田町)・中村吉太郎(和地村和地)などがあった(『静岡県茶業史』『浜名郡誌』)。
(表)茶園反別表
(大正10年)
市町村名 | 茶園反別 |
浜松市 | 37町5反 |
飯田村 | 0.4 |
天王村 | 0.5 |
市野村 | 4.0 |
積志村 | 7.0 |
笠井町 | 1.0 |
北浜村 | 7.0 |
小野口村 | 10.0 |
赤佐村 | 23.0 |
中瀬村 | 0.5 |
豊西村 | 0.2 |
中ノ町村 | 0.3 |
曳馬村 | 28.0 |
三方原村 | 90.0 |
白脇村 | 1.1 |
可美村 | 0.5 |
新津村 | 0.1 |
篠原村 | 0.2 |
吉津村 | 0.1 |
新所村 | 0.7 |
知波田村 | 1.0 |
入出村 | 0.3 |
和地村 | 13.0 |
吉野村 | 14.5 |
雄踏村 | 0.9 |
神久呂村 | 34.5 |
伊佐見村 | 15.5 |
入野村 | 24.5 |
富塚村 | 40.5 |
白須賀町 | 1.0 |
計 | 372町3反 |
産額 203,058貫
価額 402,910円