牛乳業

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 明治二十七年(一八九四)敷知・長上・浜名三郡の牛頭数が百九十七頭で八十三%は内国種であった。【白山舎 興農舎】浜松には元城の興農舎と栄に白山舎があって、乳牛数は三頭ないし六頭で、年間の搾乳高は各三十五石前後であった(明治二十七年)。興農舎は三十二年に菅野善次郎(元城)の手に移り、また白山舎は斎藤徳次の経営で、のちに三組町へ移った。当時配達値段一合瓶三銭二厘で他の物価に比してまだまだ高価であった。明治の末期となると同業者も増し、三十八年五月には同業者有志の共同販売所が大安寺下へできた。のちに養牛舎(板屋)・松田農園(沢)などがあった。しかし牛乳業は牛乳取締規則が厳しかったこともあって発達しなかったという(浜松牛乳株式会社『浜松市乳史談』)。馬の飼育は三郡で七百七十六頭(八八%は牡)であり、牛馬ともに他県より購入した。