その後、政府の方針が「従来人民ニ於テ海面ヲ区画シ捕魚採藻ノタメ所有居候者有之候処、右ハ固ヨリ官有ニシテ本年二月第廿三号布告以後は所有ノ権利無之候条」と定まると、湖岸各村の海面借用の請願となった。【十一年】ときに明治九年八月で、そこで村櫛村も官有地拝借願を提出し、十一年一月に捕魚採藻に関する営業許可を得たが、その採藻水域は反別千百町歩ときわめてひろいものであった。したがって収穫量も多かったので、三方原の開拓地方面へ売りさばきよい収入であった。しかし、これは旧習によって藻を得ていた近隣の村々としては承認できないところであったので、「藻草他売停止の掟を破るものとして」いわゆる庄内八か村(白洲・協和―上田・西・細田・乙君が合併―堀江・内山・和田・平松・深萩・呉松)が村櫛村を相手として訴訟をおこした。