【十六年】こうして明治十四年六月にはじまった訴訟の結果、村櫛村は初審再審で破れ、大審院で争い十六年三月ようやく勝訴となり販売権の確保ができた。始めての訴訟のさい、六月廿七日であったが、上京にさいし村総代の柴田藤吉・柳原時次郎ら五人は村の八柱神社に必勝の祈願をこめて村櫛を出発したのであった。しかし訴訟費は村内全戸の負担だったので、支払に窮したものもあったという(『海藻他売差止訴訟事件上告日誌』)。その後も藻場について小さな紛争が絶えなかったので、明治三十五年一月県は県令第二号をもって、浜名湖採藻取締規則を発布、浜名湖関係村々を召集して境界を確立することになった。【三十六年】境界案は関係町村長が作製して提示、各町村ほとんど異議なく、はじめ原案に難色を示した和地村と伊佐見村も同年十二月には賛同したが、雄踏村と村櫛村とは両者意見を固執してゆずらず浜名郡長・浜松警察署長の仲裁によって三十六年五月ようやく和解が成立、解決をみた。その内容は、①伊佐見村・古人見村地先湖面の既設の標識を起点として、新居町新居洲崎庄境石を見通して一直線を引き、それより以東を佐浜・伊左地と大人見・古人見の入会採藻場および雄踏村・舞阪町・篠原村の入会採藻場とし、それ以西をもって村櫛村の採藻場とする。②村櫛村に属する採藻場の中の湖面反別二十町歩は、篠原村が貸与料を出して村櫛村より貸与をうける。契約は五か年とするが、満期となっても特別の事情のない限り継続する。ということであった(『村櫛村誌資料篇一』)。
明治39年協約採藻場
その後、さしたる紛争もなく大正・昭和を迎え、戦後肥料の不足により藻の高値を呼んだが、化学肥料の普及によって昭和三十年ごろ採藻は絶えてしまうのである。