これより先に、政府が明治十六年に鉄道を東海道に敷設する案を定めると、遠州出身の長谷川貞雄(海大書記官)・鷹森(陸軍会計監督)・加茂(海軍小書記官)らの誘致運動となり、浜松でも翌十七年の「八月十日丸尾文六・鈴木八郎・気賀半十郎・竹山謙三・林弥十郎の諸氏が遠州浜松の旅館花屋に集合し」(『静岡大務新聞』)、東海道鉄道と称する鉄道の敷設計画案を決定した。政府に先んじて実施しようというのである。こうした遠州人の動きが推進力となって、やがて県会議員らによる敷設発起人同盟会が組織され、力強い緒願運動が進められたのであった。
敷設計画の最初は焼津から駿河湾沿いに南下し、太平洋岸に沿い掛塚に出て浜松に至る線が有力であったが、廻送問屋の反対や東海道の旧宿場関係者の誘致運動などと賛否まちまちのうちに、ほぼ東海道に沿って敷設と決定されたのであった。【長谷川貞雄】この間に長谷川貞雄(弘化二年敷知郡宇布見村中村家生、豊田郡川袋村長谷川家へ養子、権太夫、報国隊へ参加、海軍主計総監、貴族院議員、明治二十八年浜松松城へ東京より転住、明治三十八年二月没、六十一歳)の果した役割は大きかったといわれる。
長谷川貞雄