駅前広場の発展

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 【運送業 休泊所】駅前広場へ明治二十二年には諸貨物取扱所の堀留会社出張所・丸市運送店・内国通運会社浜松代理店で新聞雑誌販売所をかねていた林新聞舗(林弥十郎経営)の運送業者が進出し、旅人休泊所として池川屋(金原庄太郎)が開業している(駅弁をはじめたのは池川屋とも自笑亭ともいわれる。明治二十二年「浜松地図」)。【大米屋 花屋】まもなく入枡座(いりますざ)の火事で類焼した伝馬町の大米屋(鶴見信平)・花屋の両旅館が移転し、豪壮な建築を構えるに及んで、駅前通りに威容を加え、文字通り浜松の玄関口としての面目をそなえるにいたった。
 こうして二十八年ごろには物産を扱う会社や、委託のような倉庫会社や丸市のような運送会社をはじめ油屋のような旅館も進出している。このようすを『浜松土産』(明治三十二年版)は「旅客の昇降織るが如く百貨の出入亦間断なし」と記している。
 駅前広場は浜松としてはめずらしい広場だったので、いろいろの行事も行なわれた。【凧】浜松出身の漢詩人内田遠湖(後述)は「四月五月遊興高 郊天尤好紙鳶翺 法雲寺前出相集 市中少年気太豪 東阡西陌繹騒(以下略)」(『遠湖小品』)とここに凧揚げが行なわれたことを記している。【消防出初式】また消防出初式も毎年正月五日この広場で行なわれ浜松年中行事の一つであった。明治二十五年のこの日には、浜松各町二十三組が揃い竿頭にかかげた丈余の布帛(ふはく)をポンプの水勢ではじき落す競技を展開し、利町が一等を得た。「此日天気晴れて最と暖和なりしかば見物人の夥しきこと云はん方なく、中には八円余を入れ置きたる懐中物を掏られしものさへ」あったという(『静岡民友新聞』)。【凱旋門】日露戦争の凱旋門もここに建てられた。
 
【旭町】駅付近は通称八幡地といい浜松が町制施行のさい浜松町の一行政区となり(但し八幡地という地籍はない)、大正十四年五月一日地籍整理の結果、大字伝馬と鍛冶の各一部を割いて一町を編成し旭町と命名した。これは明治の頃、在住の人たちが朝日町(あさひちょう)と称えたのを襲用したものである。