【金原明善】金原明善は、天竜川流域の木材輸送のため購入した蒸気船「千代丸」が明治二十一年三月に初航海で難破すると、鉄道輸送に変更を決意し、平野又十郎(掛塚商船会社総代)・小松正一(東京野口組代表)らと語らい、天竜川の西岸に新設請願をしたのであった。なお貨物の取扱いは前記三名によって設立された天竜運輸会社によって行なわれた。【全国七位】貨物取扱量が増加すると三十一年七月一日天竜川停車場に昇格し一般の運輸営業が開始され、三十五年一月及び二月にはその鉄道納金順位は全国で第七位という営業成績であった。ちなみに浜松駅は第八位であった(『金原明善、佐々木茂『古文書から見た天竜川駅沿革史』)。なお四十五年一年間の天竜川駅の乗客四万一千七百四十八人、降客四万七千六百五十七人、着荷一万二千三百八トン、発荷は十万四千四百三十九トンの多量であった(『和田村誌』)。【掛塚港】このため掛塚は東海道線の開通によって所属船舶も十九年百六十九隻、二十四年百九十三隻に対し三十一年五十九隻、四十年二十三隻、大正六年四隻と減少し、ほとんど港湾としての機能は停止するにいたった(『竜洋のあゆみ』)。しかし信州時俣まで舟の便はまだ行なわれていた(『中ノ町村誌』)。【半場】半場や国吉が材木などで賑わったのもこの頃であった。