【丑浜】浜遊びには中田島の魚釣と米津海岸の丑浜(土用の丑の日に海水を浴びて身体を潔める行事)があったが、海水浴場として弁天島の名が知られるようになってきた。明治二十年ごろ浜松肴町の酒屋間渕屋の妻女が転地療養をしたのが最初という。二十二年には一碧楼(那須田又七経営)という納涼台がおかれ、翌年には茗荷屋、つづいて松月、伊勢屋などが開業し、浜松からも白砂亭が進出した。中等学校の水泳部が設けられると賑わいは増すばかりで、三十九年七月から夏季のあいだ仮駅が設けられ、大正五年九月にはこの仮駅も弁天島駅という定設駅となり、【浜名湖巡航】明治四十年八月には浜名湖巡航株式会社(のちの浜名湖観光汽船株式会社)が鷲津に創立され、観光は浜名湖一帯にひろがるようになった。