後者には、道徳教育の必要がとりあげられた。明治十四年県学務課の定めた『児童心得』(明治十五年四月浜松では谷島屋斎藤源三郎出版)、十五年に全国小学校へ『幼学綱要』を配布したのもその例であったが、ようやく忠孝を基本とする教育理念が強調されるようになった。そして二十三年十月には、その集大成ともいうべき教育勅語の頒布となり、御真影の下付となった。県では二十五年御真影並びに勅語謄本の奉還を指示するところがあり、浜松地方でも明治の終りごろから、奉安殿と称する奉置所を設置する学校が多かった(浜松市立篠原小学校『浪の音百年』浜松市立和田小学校『和田学校百年之歩み』)。
祝祭日の儀式も御真影への敬礼と教育勅語奉読が中心となり(二十五年県「布達」)、御真影も勅語謄本も神格化され、奉安殿は校内の神社であり、登下校のさいには最敬礼をなすように定められた。また奉置した学校では男教員宿直制が定まり、災害時には身命を賭けても、その奉護が要請されるようになった。