再建運動 自力で設立 組合立静岡県尋常中学校浜松分校 静岡県立浜松中学校

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 一県一中学校主義により浜松中学校が明治十九年七月に県都静岡の静岡中学校に合併されたことは前に述べた(第二章第三節第二項)。その後教育の普及とともに一県三中学主義が唱えられ(静岡・浜松・韮山、『静岡県政史話』)、二十五年通常県会に「人口最モ多ク地理便宜ナル浜松町ニ明治二十六年度ヨリ中学校分校ヲ設置」案が提出された。しかし「僅かの時日の中に豹変して県立中学校の分校を浜松に置くなぞとは驚き入ったる次第」という反対論によって見送られ、翌二十六年地元出身の武田与平次(河輪)・柳原時次郎(村櫛)・中山誠一(白脇)などによる再提出となった。【学校費 二十七年】これは学校経済は敷知・長上・浜名の三郡に於て負担させ、県費八百円の補助をするという案であったので、「県費がその程度ですむならば」「中学の乱立は好まぬが二つ位は最も理想で、この際は浜松に増設すべきである」との賛成意見も多く(『静岡県議会百年史』)、中村忠七・沢田寧の尽力もあり、地元の強い要望によって長上・敷知・浜名の三郡、四十二か町村学校組合立の中学校が「静岡県尋常中学校浜松分校」として二十七年四月発足することになった。位置は浜松町大字元城の大手、坪数千八百八坪、学級数五、教員九、生徒二百二十七名であった。【名残移築】日清戦争後の中等教育充実方針により翌二十八年十一月独立して組合立の浜松尋常中学校となったが、二十九年移転新築の議がおこり三十一年四月県に移管され大手から名残(当時は富塚村字常光、現広沢一丁目)へ移った。現在の静岡県立浜松北高等学校である。敷地六千六百坪、六棟四百八十二坪、寄宿舎もあり、工費一万三百四十六円余。英国風の校舎は人の目をそばだたしめ、「ただ見る四方はるばるとうち開き連亙重畳せる山々をも指呼の間に望み、彼方の林此方の人家をも一眸のうちに集むべき広闊なる境に甍の波静かに世はなれて立てるぞわが校なる」(『校友会誌』)とあるように、教育環境に恵まれていた。【三十二年】校名も明治三十二年県立浜松中学校となり、浜松地方最初の県立中学校として、多くの人材が育つようになるのである。また名残への学校設置は浜松の西北部方面が文教地区として発展する端緒ともなった。明治三十年三月第一回の卒業生六名を出した。三十七年一月の在学生徒数四百八十五名、郡別では浜名郡六十%、磐田郡二十%、引佐郡八%であった。【入学難】三十八年志願者二百四名で入学者百三十六名、父兄の職業は農五十七%・商十八%が大部分を占めた。【試験制度】川上嘉市(四十一年卒業、日本楽器社長)は試験制度が厳しかったので、入学生百二十名のうち無事卒業したものは五十名に過ぎなかったと述懐している(『浜松北高等学校八十年史』)。明治年間の卒業生千二十九名に達している。

県立浜松中学校

【運動会 水泳訓練】学校行事、例えば優勝旗をかけた浜松近隣の小学校招待の徒歩競争は陸上運動会の呼物で「まさに浜松の名物」(三十五年『校友会誌』)であり、創立の早い野球部(二十九年創立)の静岡中学との対校試合や発火演習(三十一年以降)は浜松の行事の一つともなり、弁天島の水泳訓練(三十五年以降)は、同島が浜松の人たちに親しまれることの一助ともなった。【歴史参考館】また明治四十一年付設された歴史参考館は当時としては新奇の建物であり郷土教育の端緒ともなった(『静岡新報』)。