設置方針 商工業が町是 浜松町立浜松商業学校

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 明治時代に浜松において静岡県立浜松中学校と肩をならべてよく知られたのが浜松町立浜松商業学校であった。浜松が商工業都市として立っていくには、その方面の人材を養成する教育機関の設立の必要性はかねてから唱えられていたが、それが具体化し浜松町が簡易商業学校を設置する方針を定めその設置案を町会で可決したのは明治三十一年十二月であった。ただちにつぎのような国庫補助金の申請書を提出した。【浜松人気質】それには「本町ハ本県下ニ於テ静岡市ニ次キ遠江第一ノ市街ニシテ、最近ノ調査ニ依ルニ、戸数三千七百余、人口幾ンド二万ニ達シ、既往五ヶ年ニ於テ毎年人口一千内外ヲ増加シ来リ、名古屋静岡両市ノ間ニ於ケル百貨聚散ノ商業市街ナリ、故ニ輓近商業及工業ノ振興発達頗ル顕然タルハ既ニ世論ノ許ス所ナリ、蓋シ本町ハ純乎タル商業ニ據テ以テ市街ノ繁盛ヲ進捗シアレバ商工業外ハ他ノ事業ヲ顧ル可キ遑ナク実ニ商工業ヲ以テ全然町是ト為ス」として浜松の発展は商工都市として立つよりほかにない旨をのべ「上陳ノ如ク本町ハ純粋ノ商業市街ニシテ商業教育ノ機関之レ無キハ実ニ一大欠点タルヲ以テ町民ノ多年ノ希望ニ依リ、進ンデ爰ニ商業学校ヲ設置セントスル所以ナリ」と強調している。こうして補助金は五か年間年八百円交付と決定し、浜松町大字元城の齢松寺(旧浜松城本丸)の地所建物を借用し(三か年賃借契約)、名称も商業学校規則に依って浜松商業学校と変更し、三十二年四月一日より浜松最初の商業学校として開校した(『静岡県浜名郡浜松町沿革誌』)。浜松中学校も浜松をふくむ敷知・長上・浜名の三郡による組合立であったし、ここにまた浜松商業学校の発足も浜松町立であった(県移管大正十一年四月)。【自力で設立】県政の手は県都が中心で浜松まではなかなか伸びず、教育方面も自力で開拓してゆくより他になかったのである。

浜松商業学校(三組町所在当時)