浜松商業学校についで、日清戦争後に女子教育への関心が高まると(三十二年高等女学校令)、県下では沼津・三島とならびいちはやく町立で創設されたのが浜松高等女学校(七月より町立を冠す)であった。現在の浜松市立高等学校の前身である。【三十四年】ときに明治三十四年四月で、最初は大字元城の浜松幼稚園舎が仮校舎(二階建、階上二教室、雨漏がしたという)であった。【馬冷】三学級編成の百五十名・三十七年七月に大字松城の馬冷(うまびやし)(旧浜松城内)の新校舎に移転した。敷地三千四百五十五坪、校舎九百九十八坪、運動場二百坪、学校徳育の方針を誠・愛・節におき、「女子は母となる為に、母に必要なる知識は学ばざれば得がたし」と説き、良妻賢母の育成を校是とした(明治三十八年『校友会報告書』)。【父兄状況】明治三十八年在校生出身地別調によると在校生百九十七名のうち浜松町が四十四%、浜名郡が三十四%、引佐郡四%で、父兄職業調は商四十四%、農三十一%、庶十五%であった。【学費】一か月の学費が寄宿生(寄宿舎松城町)で授業料一円十銭、舎費五十銭、食費三円十八銭、被服費二十七銭、書籍費三十七銭、文具費四十五銭、雑費六十四銭、計六円五十一銭で(『校友会報告書第三号』)、「浜松の風習ではまだ女芸・縫針の道を貴んで、女の学問は女らしからぬ女をつくるもののように思われていた」(第五回卒業生鷹野つぎ『春夏秋冬』)時代であった。
浜松高等女学校(松城町馬冷所在当時)
同校第十五回校内運動会