作左山移転

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 浜松最初の女学校ということで、運動会などには見物人で山をつくるほどであった。髪はひさし髪で、日露戦争後は二〇三高地という髪が流行した。【服装】服装も最初は一定せず、追々袴(はかま)を着用するようになったが雨天のときには穿いてくるものもなく、服装も着物類もいっさい木綿、袖丈は一尺八寸以内で、儀式のときには木綿の紋付(もんつき)であったという(明治三十八年『校友会報告書』)。「校門の前方に天守閣のこんもりした森がつづいてゐて、その前のお濠には、四季蔽ふばかりの緑」の木々が繁茂し、付近には人家はほとんどなくて「裏手の森の上に真赤な落日を見」るとき、少女らしい感傷にしばしばひたった、と鷹野つぎは述懐している(城濠は大正初期埋立てられ、森も今はない)。【四年制度】四年制度(後に五年制も採用した)で第一回卒業生二十九名。卒業後に浜松裁縫義塾・浜松町私立裁縫女学校・古沢裁縫義塾に学んで裁縫の技術を修得するものもあった。【入学難 二倍】入学志願者も年々に増し、大正七年志願者二百四十六名に対し許可百四十九名(浜松市六六%、浜名郡三二%)、大正十二年には四百三十名に対し二百名で、市立女学校の生徒であるという袴の裾につけた白い線の目じるしに生徒たちは誇を感じたものであった(制定大正初期、大正十三年夏から洋服となる)。また定員も明治三十八年の四百名が大正七年六百名、十二年八百名(補習科五〇名)で狭隘をつげると、同年四月にほど近い松城町作左山(さくざやま)の西北の新校舎へ移った。馬冷時代二十年余であった。現在の地(広沢一丁目)に移るのは戦後である。
 
【田辺友三郎】校長に田辺友三郎(元治元年九月石川県生、明治三十七年九月就任、大正六年四月退職、高町在住、昭和八年四月没、七十歳)があった。十五年近く在職し浜松女子教育の恩人であった。【ももたろうの歌】文雅の道にすぐれ、「ももからうまれたももたろう、きはやさしくてちからもち」の唱歌の作者として知られている(明治三十三年版『幼年唱歌初の上』、作曲納所弁次郎)。歌詞がこの頃から流行しはじめた言文一致体だったので、子供にもよくわかり愛唱された。自宅で古典の講議を開いたり、和歌を奨励している。鷹野つぎ(後述、第四章第七節第二項)はそのような環境から育った作家であったといえよう。