浜松裁縫女学校 家政女学校 信愛女学校

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 【三十六年 中村みつ】私立浜松裁縫女学校は明治三十六年一月開校(認可は前年十月)。最初は校主長谷川貞雄で、中村みつが管理にあたった。みつは中村万吉(明治二年気賀生、延岡・佐野・宇都宮の各高等女学校長、装束着用掛図解説の著あり、和歌をよくし南山遺稿二冊、明治四十四年六月没、四十三歳)の妻(明治七年浜松菅原町生、昭和十七年五月没、六十九歳)で当時二十九歳であった。校名の示すとおり裁縫の技術の修得を目的とした。平野又十郎・金原明善・市川安平・中村藤吉の後援を得て、浜松町大字利(とぎ)の平野邸を仮校舎とし発足したが、四十年十一月に浜松町大字常盤へ新築移転した。【常盤の女学校】新川に架かる分器(ぶんぎ)橋(分木橋とも書く)のほとり、二階建の水田や畑にかこまれた新校舎で「常盤の女学校」の愛称で親しまれた。中村万吉の死によって経営は危機に陥ったがみつのかたい決意によって存続に決したという(中村隆「長い遙かな道」『創立七十周年記念特集』信愛高等学校)。尋常小学校卒業者を入学資格とする本科(四年)と速成科を主体とし、そのほか高等科・研究科があった(大正十四年学級七、在校生三五〇名)。大正十一年に浜松高等裁縫女学校となり、その後浜松高等家政女学校(昭和二年)、浜松信愛女学校(同十六年)と改名し、戦争中は戦時体制へ協力のため商業学校に転換して信愛女子商業学校となった(同十九年)、終戦後の昭和二十一年信愛高等女学校と改称した。その間に下池川町に移り(同二年)、新制高校となって(同二十三年)、今日の信愛学園高等学校となった。

浜松裁縫女学校(常盤町、新築移転当時)