なお、この他に古沢裁縫義塾・浜松裁縫義塾や金原裁縫技芸学校などがあった。古沢裁縫義塾は大字後道(現在千歳町)にあって古沢某女の経営、浜松裁縫義塾は馬渕しん(元士族)の経営で大字松城の作左にあった(普通科および高等科、生徒数一〇〇名内外、寄宿舎があった)。金原裁縫技芸学校は金原明善が明治四十四年四月和田村安間に設立した(実践裁縫女学校とも私立女子農学校とも称した)。在学期間二か年で、学費寄宿費すべてを明善が賄ない、女学校へ進学のできない農村の女子教育を目的としたが、経営上の問題で大正五年に在籍生徒を浜松裁縫女学校へ編入させて廃校となった(明善記念館所蔵資料)。