有賀豊秋(ありがとよあき)(菅原彦太郎、又は八十右衛門、寛政二年五月長上郡有玉畑屋村に生、明治十五年十月没、九十三歳)は、国学を本居大平(おおひら)・高林方朗(みちあきら)に学んだ。屋号を伎倍廼舎(きべのや)、俳号を烏玉(うぎょく)といい慶応四年三月、報国隊出発にあたって浜松五社神社の社前で戦勝祈願の祝詞を読みあげた。岡部譲はその碑文に「翁に就きて物学びつる者は多く明治の始めに皇軍に従ひて勤く仕へまつりければ朝廷の御覚えめでたく高き官に昇りつる者もありつれど翁は殆忘れたる如く往きて訪らふ事もしたまはざりしを以ても翁が心高さはしられぬべし」といっている。遠州国学の最後の耆宿(きしゅく)であった。橋本茂登治(上前島、明治四十一年没、六十六歳、秋葉神社宮司)は豊秋の門弟、秋葉神社詞掌であった。中村大館(宇布見村源左衛門、同村天神宮祠官、明治二十二年没、六十九歳)は平田系の国学者、明治十一年十一月浜松神道事務局副長を勤めている。