譲(嘉永二年一月生、昭和十二年四月没)は浜松藩学校克明館に学び、明治四年上京「平田・矢野・渡辺等皇学の大家を歴問し、また国語学を権田翁に学」んだ(『嶽陽名士伝』)。七年五月井伊谷宮の宮司、六月浜松県内神道教導取締、八年十月浜松県下神道事務分局長、その後秋葉神社祠官等を経て、二十七年皇大神宮権宮司を、三十一年多賀神社、大正三年熱田神宮、十一年伏見稲荷の各々宮司をつとめた。【衛生 教育】浜松在住当時は明治十六年遠江私立衛生会長、二十年には養徳会を創立し幻灯(げんとう)を用いて教育の普及につとめ、浜名郡教育会の前身となった西遠私立教育会の会長、また十七年には静岡県皇典講究所教授兼理事をしている。【真淵研究】伏見稲荷を辞し、新居の岳洋荘に閑居ののちも、神職界の宿老として重きをなすとともに、真淵の研究をすすめ、真淵の書簡の蒐集と考証に力をつくした。これは『賀茂真淵全集巻十』に書簡集として収載されている。【県居歌会】また浜松県居(あがたい)歌会をおこし、大正から昭和期へわたり、その指導者として和歌の普及につとめた。【県居文庫】昭和五年天皇が浜松へ行幸され、真淵をいつく県居神社に勅使を差し遣わされたとき、多年蒐集になる蔵書一万二千冊を県居文庫と名づけ寄進した。文庫は昭和二十年戦災によって同社とともに焼失したが、蔵書のうち『正平板論語』は焼け残り、浜松市指定の文化財(昭和四十一年七月)となっている。
譲は遠州国学の最後の灯であった。金原備後(明治元年十一月長上郡新貝村生、歌碑普済寺)はその門人である。
岡部譲