内田乾隈(うちだかんわい)(文化八年十二月生、明治三十二年五月没、七十三歳)は貞二といい足立東郊の子。東郊(弘化元年十一月没)は敷知郡野口村内田七郎右衛門の四男で名は正辰、長上郡平口村足立氏の養子となり、江戸で医を学び、浜松新町で開業し漢学にも秀でた人であった。乾隈は塩谷宕陰に学び、眼科の大家土生氏の門に入り浜松新町に開業し、蘭法治療家としても知られた。『防疫貴目』の著がある。平素尊王の大義を唱え『破地士等窠(はじしらず)』の著者といわれる。つねに「東郊先生よりの遺訓なり。宜しく天下第一の人と交り識見を養ふべし」と子孫をいさめたという(『浜松市史二』参照)。