左千夫来浜

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 【三十六年】前述の国学者たちはいずれも短歌をたしなんだが、近代短歌を学んだものに山下愛花があった。愛花がかねて書簡の往復で師として仰いでいた伊藤左千夫を浜松に招いたのは明治三十六年十一月であった。【浜松城】この日左千夫は蕨真(わらびまこと)とともに愛花の案内で浜松城をたずね「風寒く夕日悲しも武夫(もののふ)が血にさけびけむ其ありどころ」「おのがじしつかふる君に武夫が命ささげて相争ひし」「武夫が劔抜きなめ守りけむ今徒らにつはぶきの咲く」「咲きかへる石間つはぶき千代ふとも守りけむ人に又もあはめやも」(「西遊日抄」『馬酔木第一巻第八輯』)などの短歌を作っている。左千夫歌集には、文章を切りつめ歌の詞書として必要な程度だけを残し、歌も終りの「つはぶき」の二首だけ採ってあり、のちの岩波発行の歌集には、その前の「おのがじし」の一首を加え、「風寒く」は抹消されている(『柳本城西書簡』)。【山下愛花】山下愛花は豊橋の人で、当時浜松元城の熊谷病院に勤めていたという。柳本城西の『犬蓼』の初号に山下愛花の名が見えるところをみると、城西と交友があったようである。「穂の山を朝こえくればさみどりのあを葉が上に海ひらくみゆ」は、『犬蓼』にのった一首である。しかし浜松に近代短歌が行なわれるまでには、柳本城西(後述、第四章第七節第四項)の出現を待たねばならなかった。

犬蓼