幕末から明治へかけての俳人については『浜松市史二』に詳しいが、そのほかに沙羅庵如鐫(本名矢部清之、士族、明治二十二年九月没、五十六歳)・橘円知(本名楠正彦、士族、半頭町、明治三十三年十二月没)・野々村如荘(士族、元城町)・亀井一山(僧侶、高町、歌人)・鈴井芋谷などがあったことが知られている。しかし、この時代に代表的俳人として浜松地方の俳壇に君臨したのは松島十湖であった。【栩木夷白 西遠吟社】年立(としたつ)(庵)・日月(じつげつ)(庵)・白童子(庵)・七十二峰(庵)・大蕪(庵)などがその庵号で、栩木夷白(いはく)に俳諧を学び、十七歳で判者披露をするほどで、十四年九月には俳諧西遠吟社(郡長時代)を設けて、その普及につとめた。政界を引退してから俳三昧の生活に入り、陸奥(みちのく)に信濃路に吟行(ぎんこう)を試み、年々の芭蕉忌も欠かしたことがなかった。
平素「俺は天下の俳人で、旧派の隊長、月並の棟梁だ」(明治四十年十一月『浜松新聞』)と豪語した。俳友は関東より四国に及び(『十湖周交録』)、その門弟数千人といわれ、立机を許したもの五十余名と伝えている。【十湖発句集】句集に『十湖発句集』(明治十八年十一月静山堂、浜松山下仁平発兌)『十湖三百歌仙』『山月集』『道の栞』などがあり、おびただしい作品を残しているが、その底を流れるものは報徳の思想であった。師夷白のために『夷白発句集』を発刊している。【句碑】十湖の句碑は多いが「はま松は出世城なり初松魚」(大正十三年建立、野口八幡宮)「咲きながらのびすゝむなり藤の花」(大正十三年建立、西来院)が有名である(牧田守弘『十湖翁句碑めぐり』)。
十湖句碑(八幡宮境内)