堀川鼠来

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 堀川鼠来(幸七、士族、文化十五年四月八日生、明治二十年七月三十日没、七十歳)については『浜松市史二』にも述べているが、平田町(三四番地、桑原てい方同居)・元魚町(明治十年、三〇番屋敷)・白山下(明治十二年、二五番地、本称寺長屋)と転々とし、後に龍禅寺村に住んだ。妻はせい(文政十一年正月生、豊田郡川口村農川口甚一郎長女)といい、長女やゑ(弘化四年五月生)に養子義郎(千葉県士族、天保十二年正月生)をもらい家督を嗣がせ、明治のはじめ隠居している。【鼠来発句集 句碑】十湖が刊行した『鼠来発句集』(明治二十一年刊)があり、句碑「まとうつや秋をさたむる夜の雨」(明治十九年建立)が龍禅寺境内にある。その作品には俗臭を感じさせないものが多い(内山草子「堀川鼠来という人」『静岡県俳句協会会報』)。

鼠来句碑(龍禅寺境内)

 俳譜は庶民の娯楽として、村祭などの献納句会にも応募するものが多く、和歌などに比し普及がいちじるしかった(明治二十四年八月有玉八幡宮流鏑馬奉灯には入花料一組一銭二厘であった)。【旧派】近代俳句が勃興すると、旧派といわれるようになるが、根強く農村に伝えられていくのである。