近代俳句の芽生 渥味溪月

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 つぎに正岡子規にはじまる近代俳句であるが、このころ浜松には兀々会・椎の実会・諧楽吟社(三十五年~三十九年)・山葵会(三十七年、松城、平山三余)・楽水会(三十五年~三十六年)があり、中郡村万斛に稲妻会、小野田村小松に西遠蕉風会(三十七年、金子正三)・もみぢ会(三十八年)、和田村に浜松俳友会、三方原村に萩会(三十六年~三十七年)、新居町に新水庵(三十六年)があり、数えられる俳人も三十余名にのぼる盛況であったが(『ホトトギス』)、その中心となったのは渥味(あつみ)渓月(薫、静岡師範学校卒、明治三十二年万斛小学校勤務、和田・入野・曳馬下・白須賀小学校へ転勤、大正六年愛知県宝飯郡大塚村で没、四十一歳、父正人は浜松町長)であった。
 
【兀々会】兀々会は「当地の俳界徒らに俗輩の横行に委す、我等同人坐視するに忍びす」の趣旨で、明治三十二年四月に小野田坦々・亀井摯月などによって結成された。第一回句会は浜松城天守台に開催し、会員に清筠・杏村・鳴洋・孤舟などがあった。「小弱の嫌ひもあり」として芙蓉会と合併したようである。【稲妻会】万斛の稲妻会は、大龍寺に下宿していた渥味渓月らの主唱によって三十二年九月「当地方は十湖宗匠初め月並先生の巣窟とでも申すべき処」だから、これを「奪ふべく」との心組で、篁堂・柳涯・子秋・習堂などを会員として結成された。しかし、翌年の秋には「会員の集散常なく例会さへも催すこと」がむずかしくなり、渓月の和田小学校転勤(明治三十四年五月)のため解散となったらしい。【椎の実会】そののち渓月は和田村で浜松俳友会(明治三十五年)を、浜松紺屋の自宅では椎の実会を開催し、三十七年ごろまで続けている。
 
春水を隔てて赤き鳥居かな   兀々会坦々
春水の城をめぐりて月上る摯月
貝島に負はれて渡る汐干かな椎実会笑叟
夏帽や村に一人の文学士春川
虫干や小寺にあまる大般若偕楽吟社晨沢
君に別れ時雨るる頃となりにけり稲妻会溪月
弾薬庫たち並びたる暑さかな蕉風会暮村
蛇穴を出でめ茨の芽伸びにけり俳友会溪月
鰌掘れば鶺鴒の来る裏田かな颯々会六痴
一つ家に鉦も佗しき枯野かな不老