小屋掛興行

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 【旅役者】浜松付近では海老塚村(当市成子町)大厳寺(だいごんじ)境内で明治八年十月嵐歌女助一座が「大厳寺の仇討」という外題で晴天七日間の興行をしているし(渥美静一「演劇に見えたる遠江」『土のいろ』第十六巻第一号)、同五年九月下都田村(当市都田町)の空地で市川鶴治郎一座が四日間歌舞伎興行している(富田準作『都田村郷土誌』)。また浜松新町庚申(こうしん)堂北裏の空地で同六年春女角力(すもう)の一座が興行し飛入を歓迎したので満員の盛況であったという(菅沼才平『新町育ちの思出』)。
 
【素人芝居】このような旅役者でなくて村の若者や村人の有志が寄りあい「まんにんこう」といって村の祭典などのときに、余興として仮舞台を作ったり家を利用して興行したり、また近村を小屋掛興行してまわる宇布見村(雄踏町)の坂東国四郎(本名中村留次郎)一座とか、都田の新木中津方面や丸塚・四本松(四本松劇団)にも「万人講」といってこのような「しろうと」芝居をするものが多かった。【若御子神社 陽報寺】こうした芝居を興行記念として神社に掲げた額が、古人見(こひとみ)の若御子神社、入野の陽報寺などにある。このような芝居につき恒武(つねたけ)村(当市恒武町)の小栗かたは「芝居と言ふと大袈裟に聞えるが、実は笠井町寄りの恒武地内の遠陽市場(俗称新築)裏の畑の中に小屋掛けして興行したもの」で芝居見物には「殆ど一日掛りで料理を造って重箱詰めにするやら、毛氈(もうせん)を用意するやら準備に大騒ぎであった」(『小栗方追想録』)と述懐している。