【曳馬座】ついで十八年当時には伝馬町に曳馬座があり、十一月坂東太郎一座が「菅原伝授手習鑑」などを興行している。【子の日座】二十年ころ後道に子(ね)の日座(ひざ)があり、二十九年九月菊五郎一座が興行したり、三十二年九月には静岡県教育教会総会が開かれている。入枡座は二十五年三月二十三日座内のラムネ屋より出火して焼失(入枡座の火事という)、子の日座は三十四年十二月二十一日焼失した(後道の火事ともいう)。松栄座・曳馬座・入枡座・子の日座は明治前期の浜松の代表的な劇場で、江戸時代の名残をとどめていた連尺町・伝馬町を中心にした東海道沿いに存在していた。
原田浜人(ひんじん)は明治三十年十四歳のとき曳馬座で観劇し、「幕間にいろいろの食べ物を売りに来る。長方形の浅い大きい箱に煎餅の袋・蜜柑・寿司・茶などを入れて、数名の少年が座席へ廻って来る。そして呼応するやうに、『煎餅は、ようおすか』『蜜柑は、ようおすか』『お寿司は、ようおすか』『お茶は、ようおすか』と、快い声を上げる。『よう、おすか』と、上げ調子に音楽的に呼ばはる。一幕の興奮の後の春の宵の雰囲気にふさはしい呼び声である」と追憶している(『浜人随筆』)。
【歌舞伎座】また鷹野つぎも後年歌舞伎座で観劇し、まだ電燈がなかった「舞台での脚光カンテラ、照明は百目ろうそく」で「ちらちらと瞬く燭光に映し出された舞台は、夢でも見てゐるやうなきらびやかな美しさでした。」といっている。この歌舞伎座は浜松停車場へ近い後道(千歳町)に明治三十四年にできた劇場で、木造建坪百六十四坪、定員千六百四十三人あり、千人以上収容のできた最初の劇場であった。三十四年六月市川左団次が興行しているが、昭和十二年二月焼失するまで長いあいだ浜松の代表的劇場であった。
浜松歌舞伎座(千歳町)
浜松の劇場位置図
【音羽座 若松座 浜松座 勝閧亭 宝来亭】これと前後して、三十六年には利町五社小路に音羽座が(四八坪、四八五人)、四十一年には伝馬町に若松座(九八坪、九八〇人)、後道には歌舞伎座にならんで大正三年に浜松座(九七坪、九七五人)があり、また寄席(よせ)には、肴町に勝閧(かちどき)亭(明治二十七年設立、三六坪、三六二人)、明治四十一年には伝馬町に宝来亭(ほうらいてい)(大正十二年三月焼失)があった。
音羽座には明治の末ごろ中村翠蛾(仲次)という女役者の一座が常打で興行し、浜松には馴染がふかかった。肴町の料理屋出身の中村綾子も俳優で仲吉の弟子であった。若松座には森三之助という役者がほとんど専属的に興行してこれも人気があったという(小池橇歌『浜松芸能界七十年』)。田舎の千両役者といわれた尾上扇昇(増田堪平、地頭方村生、昭和九年没、八十歳)という女形が坂東鶴蔵とともに評判で、扇昇は「朝顔日記」、鶴蔵の「子狐忠信」が得意であったという。扇昇の弟子には尾上扇之丞(佐野里三郎、墓大聖寺)があった(菅沼才平『新町育ちの思出』)。【芝居絵】芝居小屋の前には泥絵具で書いた芝居の看板画がかかげられて人目を惹いた。この芝居絵は連尺に大隅一平があって専門にかいていた。一平は凧(たこ)絵もかき、お祭の山車(だし)人形も造った。外題が代ると触太鼓(ふれだいこ)を叩きながら町廻りを人力車でしたものだった。