排仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動も―大山寺では寺の建物仏像を破壊し川へ流したと伝えられる―村中に悪疫が流行したり一家に不幸があったりすると、仏をないがしろにしたその崇であるというような風評がひろまり、やがてその反省となった。前述の大沢領の堀江村では明治五年にははやくもその六十%、内山村では九十%、六年には和田村、七年には西村が神葬祭から仏葬にもどっている(『明治初期静岡県史料第五巻』)。このような傾向はどこも同じで、火災で焼失した龍禅寺(明治二十一年八月出火、二十五年再建)・普済寺(明治三十年六月出火、四十三年再建)の造営も、旧観を復するまでにはいたらなかったが、仏教復興の気運に負うところが多かった。【高町半僧坊】奥山方広寺が浜松高町に説教出張所(正福寺となる、半僧坊)を設け、浜松に進出したのも二十二年で、半僧坊道という道標が各地に建てられるのもこの時代であった。一時南禅寺派に属した方広寺が独立して方広寺派と称しその本山となったのも明治三十六年であった。ことに日清・日露戦争の戦死者慰霊がさかんになると正福寺(二十七年)・光福寺(三十三年)に釣鐘がつくられ、遠州大念仏も盛大に行なわれるようになった(前述、本章第一節第三項)。なお、正福寺の鐘楼より鳴らす明六つ・暮六つの鐘の音は半僧坊の鐘といわれて市民に親しまれた。
また頭陀寺・西伝寺の再建、光雲寺・瑞生寺・南能庵(明治十八年大聖寺となる)が法地に昇格している。