日清日露戦争に出征戦勝の祈願が盛んになると、神社の参拝者も増したが、明治四十年には五社神社境内に演武館が設けられ、階上に静岡県神職会浜松支部が置かれた。この建物は市民の会堂として利用された(同館は普済寺に移され、昭和十一年静岡第二師範学校へ移されたが、戦後解体された)。
日露戦争後、地方改良運動の一環として神社の合祀問題が再然したが(明治四十二年、伊場の賀茂神社へ同地域の木船・神明・伊雑宮の三社合祀はその一例である)、府県郷村社へも公共団体よりの神饌幣帛料供進(しんせんへいはくりょうきょうしん)神社の指定と神社基本財産造成規定も公布され、名実ともに国家神道の成立をみたのであった。