【十一年】新政府が全国のキリスト教禁制の高札を撤廃したのは明治六年二月であったが、浜松にキリスト教の信者が現われたのは十一年で、その教派は天主公教ローマ・カソリック派であった。その最初の受洗者は元静岡藩士で三方原へ入植した押山復禄(明治三十六年一月没)と久保田惟一の一家の十二人であった。それは、当時東京のヴィグルー神父に師事していたペテロ田村匡交が浜松出身であったことから、神父の来浜による教化活動となったためという(『佐々木家記録』『静岡県宣教史』)。【十四年】ときに同年五月で、この年には布教場も設けられ、続いて十四年一月には浜松成子坂町に新築の教会堂が成った。名称は天主公教フランシスコ教会(天主公教ローマ・カソリック)、静岡県下で最も早い教会堂(間口三間、奥行九間、畳席)で、愛宕(あたご)山頂の尖塔は遠方から望まれ、社寺のみ見馴れた浜松の人々に新時代の到来を感じさせた(浜松カトリック教会『創立百周年記念』)。神官たちが耶蘇教の講義会を伝馬町で開いたのもこの頃であった(十二年一月『岡部家文書』)。