つぎに明治後半期について述べよう。この期において布教運動の中心となったのは、天主公教フランシスコ教会派で、テストビット神父の努力で十二名が受洗し、二十三年には同派は静岡名古屋を教区としたが、信者数四百名を越したという。【活発敏捷戦闘的 不平家】しばしば来浜したステッシェン神父は二十九年に浜松町民について静岡とは非常に違い「市民の精神が活発敏捷戦闘的で若干不平家である」と述べ、さらに「論争が尊重され政治問題も熱心に討議されたが、又宗教的な問題も尊重された。一言で言うと浜松には活気がみなぎり、そして有難いことにクリスト教徒達は当地を受持つ宣教師に大き慰めを与えた」と記している。翌三十年赴任したミュガビュール神父も又住地(浜松)の活気と好戦的性格を指摘している。三十二年には十名ほど洗礼者を得、翌年には警察の長が一人受洗、三十四年には一人の女性信者が現われ、ルルドの聖母(像の作者は龍禅寺町の庭師という)に祈って元武士のその父を改宗させた。これが浜松におけるルルドの聖母信仰のはじまりであった。そして同年には聖母を祭る洞窟もできた。しかし、その布教運動も日露戦争にロシアと同盟国であったフランスへの風あたりも強くなったため、明治四十三年から常任司祭を置かず、殿岡神父(押山家出身)が巡回司祭をつとめ発展がとどまった(『静岡県宣教史』)。明治四十五年浜松地区信徒百四十五名であった。またメソジスト派ではアームストロング(明治三十六年)・ホルムズ(明治四十一年)などが来任布教に従事している(『浜松教会略史』)。かくて同派では四十三年九月浜松メソジスト教会の牧師ホルムズによって高町に講義所の造築が成り(木内三郎『東海教区教会史要』)、これは大正八年補助教会として独立している。高町の教会とよばれ、日曜学校があり子供らにも親しまれた。また明治四十年ごろには笠井に講義所を設立し、四十五年には気賀の講義所が独立している(『笠井郷土の悌』)。