市会選挙 第一回 師範学校敷地問題

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 第一回の市会議員の選挙は定員三十名で明治四十四年九月五日施行され、その結果政派別は政友会派十六名(一級一〇名、二級六名)、非政友会派十四名(二級四名、三級一〇名)であった。この選挙で、中立の色彩の濃かった田中五郎七らが非政友会派に廻り高柳覚太郎(国民党)・井上剛一らと手を組んだため、政友会派の議員が減り両派の勢力の均衡がとれて、浜松政界二分の形勢となったことは特記すべき事件であった。役員選挙の結果議長に松井良哉(元浜名郡長、昭和十一年十一月没)、第一期の浜松市長に小西四郎が就任した。このときおきたのが師範学校敷地問題であった(十二月十九日)。大正元年十一月師範学校増設案が県会を通ると、市会は浜松誘致を決しその敷地を東鴨江と定めた。すると名残より反対運動がおきた。名残こそ敷地にふさわしいというのである。市内の町々でも東鴨江側へ田・池・早馬(はやうま)・常盤(ときわ)等が賛成し、はしなくも東鴨江と名残の誘致争いとなった。これが長引くと県東部への敷地変更にもなりかねないと事態を憂慮した市当局がその解決を市会の最大勢力であった政友会に依頼するに及び、こんどは名残を支持する政友会と、東鴨江を主張する非政友会派との争いとなり、ようやく翌二年十一月に多数決によって名残(現布橋三丁目)と定まった。これはさきの市会の決議をひるがえすものであった。