つぎに営業税の問題がおきた。営業税は商工業の発展の阻害となるばかりでなく国民生活にも大きな負担を強いるものとして非難が多いものであったため、大正三年の初頭に東京に始まった営業税全廃運動はたちまち天下の輿論として歓迎された。浜松市でも廃税運動の急先鋒であった非政友会派の市会議員十名は、営業税全廃を請願するように市会の開会を請求した。しかし政友会派の市会議員や実業界の一部には全廃は不可能に近い、むしろ減税に努むべきだ、とする意見があり、ついに全廃派による市民大会が歌舞伎(かぶき)座に於て開かれることになった。大正三年二月八日で、座長には中村藤吉が推され国民党出身の代議士高柳覚太郎が廃税演説をなし、翌日は井上剛一の上京による全国廃税大会出席となった。しかし廃税案は二月の衆議院本会議で政府与党である政友会の反対によって否決された。