大正四年十月浜松市功労者規定が発布され実施をみたが、功労者として表彰された大部分は鉄道院浜松工場の誘致または歩兵第六十七聯隊の設置に尽力した人々であった(その後表彰は第二回大正五年、第三回九年、第四回十二年、第五回十四年と実施され、功労者も浜松高等工業学校設置、他に自治又は教育功労者となっている)。ついで大正七年八月区長制度(大正元年十月末日区長設置規程が設定された)が廃止となり各区はこれより従来慣行の事務に対し便宜総代の名義をもって各区の主務者を立て、その事務を掌理させることになった。総代より成る総代会と市会とが意見を異にし紛争を生ずることもあった(後述)。この月米騒動がおきたが、これについては別項(第三節)に記す。