塵芥焼却場

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 【龍禅寺町】塵芥処理場を市が直営としたのは大正十三年であった。しかし年々増加する塵芥量を処理するために焼却場が必要となり、その候補地として龍禅寺町を指定したが、龍禅寺町をはじめ隣接の寺島・砂山の両町などの反対が強く、そのため中止との噂が高かった。しかるに昭和二年五月市から新しく委託を受けた浜松ダスト会社(昭和二年追分町設立)が龍禅寺町内の水田八百坪を買収し工事に着手した。市は「都市計画上塵芥焼却場の位置は駅南が最適で町発展の一助にもなる」と説得につとめたが地元各町は「設置は最下等地の印象を与えるのみならず将来の発展のためにも住民の環境衛生上からも問題がある。強行すれば市税不納同盟を結んでも対抗する」と猛反対、両者の対立となった。市会議長と南部地区選出市会議員の奔走により七月になって馬込川東岸の白脇村瓜内地先を予定地とするということになって決着がついたかにみえたが、今度は瓜内区民が反対。止むを得ず浅田町変電所付近を候補地に選ぶと、ここからも反対運動がおこり、市としても最初の方針の駅南部馬込川下流地域への設置は断念せざるを得なくなった。【浅田町】止むを得ずこんどは三方原方面に着目し、曳馬村と和地山を打診したが、曳馬村は拒絶、和地山の銭取では地元側も協力的であったので、昭和三年三月にいたって設置と定まった。【追分町 犀が崖】しかし地価と市街地からの距離との二点で問題があり、ようやく最初から数えると五転して決定をみたのは追分町(現在布橋一丁目)の犀(さい)が崖(がけ)であった。しかし、ここでも名残・追分の両町は焼却に反対し埋立を可としたのに対し、上池川・下池川の両町は埋立に反対し両論の対立をみたが、前浜松警察署長などの説得によって四年二月に、衛生施設の完備と地元町へ市が毎月五十円ずつ区費の一部として寄付するという条件で、昭和五年にいたって四年間の懸案の完成となった。もっともその後も煤煙や臭気などで数回騒ぎがあったが、焼却炉等が改善されるにつれてそうしたこともなくなっていった。