事態の成りゆきを憂慮した宮本甚七商業会議所会頭や竹山平八郎総代会顧問、中村代議士等は斡旋にのりだし「反対派は、市が敷設費をたとえ僅かでも三年ぐらい予算に計上することを認め、市の面目を立てる。そして実質的の延期は反対派が得たことにする」との調停案を示した。【調停失敗】しかし両者からこれを拒否されると「水道委員を反対派からも任用する」という代案を出したが、反対派は「水道調査機関を二年以上存置し、その上敷設の可否を定める」とあくまで譲らず、調停は失敗に終った。
九月を迎えると反対派は総会を開いて結束を固め①現市議には今後いっさい投票しない②目的貫徹を支援する政党には入党も辞さない③納税組合は解散する④上水道敷設に関する諸費用は負担しない⑤上水道の起債は阻止するという決議文を公表し、最後まで闘う姿勢を示した。これに対し市当局は「この時点において水道敷設の実施を延期すれば、国庫補助は打ち切られ昭和二十六年まではその復活の見込のないこと、そうなれば深刻化しつつある市西部区域(神明町以西)数十か町の飲料水の解決が困難となるのみならず、それが市の発展を阻害し将来に禍根を残す」とし、市会議員を総動員して各町の有力者を説得する一方、市内の土建業者を含む市民の有志に即行派を結成させて延期派の切り崩しに出た。その功が奏し十月に入ると総代会内部の中立派二十八か町が突如水道の即行を声明し市側に加わることとなった。【解決】そのため反対派の結束が乱れ一年近く紛糾を重ねた上水道敷設問題もようやく解決をみたのであった。もっとも県費補助の決定が若干遅れたことや、当初予定の水源地の龍池村(現浜北市)から中ノ町村(現浜松市)への変更もあって、実際に工事に着手したのは昭和四年四月で、竣工は六年三月であった(後述、本章第六節第三項)。
配水管敷設現場(田町通)