市域の拡張とともに都市計画の施行は市の発展上焦眉の急となったので、市は大正十年には都市計画調査委員会を設置したが、さらに進んで都市計画課を増設し同十一年には都市計画法適用の申請となった。その認可があったのが十二年五月で、十四年には都市計画区域の指定をみるにいたった。それによると区域は一市八か村で、浜松停車場を中心にした半径三マイル(約四・八キロメートル)の円の範囲内(面積二二四二万五千坪)の部分で、浜松市(戸数一万六六〇八、人口八万八五八〇、面積四三九万三千坪)と曳馬村(戸数九五三、人口六一七二、面積三三四万八千坪)・蒲村(戸数四三一、人口二五八〇、面積一一三万六千坪)・白脇村(戸数六六一、人口四九五一、面積二六二万八千坪)・可美村(戸数六五二、人口四一四九、面積一五七万四千坪)・入野村(戸数五八三、人口三六八六、面積二六一万三千坪)・富塚村(戸数五四四、人口二九八八、面積三六〇万三千坪)と、飯田・芳川両村の各一部であった(カッコ内の統計は大正十三年末現在)。
総額千八百十六万一千四百四十円の工事費は国費・県費の補助のもとに数期に分けて支出と定め、昭和二年より六か年計画で第一期工事に着手と決した。しかし四年になると不況による政府の緊縮財政のため起債は減額の上その認可も遅延され、当初の計画も十三年まで延長ということになった。さらに六年五月には新たに市街地建築物法が制定され、すべての都市計画事業はその都市の土地利用状況から一定の制限を受けることになり、浜松市の場合は商業地域六・六%、工業地域四十七・三%、住居地域三十八・一%、未指定地域八%の指定となった。