中村陸平市長は全国産業博覧会開催の翌年の七年十一月四日任満ちてその地位を去った。もう一期という声もあったが「市長の職は一期のみでも命がけである。これ以上は身体がもたない」と固辞して受けつけなかった。中村陸平は大正十年に新市域となった天神町村出身の市会議員であったが、望まれて市長に就任し「輸入市長」といわれた渡辺素夫の積極政策のあとをうけ「市民市長」として市民の要望に応え、市政をひきしめ、不況によく対処した。けだし大正後半期の渡辺市政から昭和初期の中村市政にかけては浜松市政に一時期を刷する時期でもあった。