浜松へ歩兵第六十七聯隊が新設されたのは日露戦争後の明治四十年十月であったが、この聯隊が実際に出動をしたのは大正三年(一九一四)の日独戦争のさいの一回であった。【青島出動】このとき静岡第三十四聯隊とともに参戦、青島攻略の右翼を担当し海岸保塁とモルトケ砲台を攻撃し戦功を立てた。浜松では大正三年十一月七日青島陥落の報が達すると官民学校生徒総出の戦勝祝賀会が開かれ、十二月二十四日から二十七日にかけての帰還には歓迎祝賀会や提灯行列を催し町をあげて凱旋を祝った。【廃止】長い間浜松に在って市民にも親しまれていたので軍縮によって大正十四年三月廃止となると市民の失望は大きかった(『歩兵第六十七聯隊史』)。【昭和三年】したがって同聯隊の兵舎跡に飛行機を射落すことを任務とする高射砲第一聯隊(大正十四年五月高射砲第一聯隊として豊橋で発足)が昭和三年三月移駐してくると町をあげて喜び迎え、市では歓迎会を開いて転営を祝った。【上海出動 満州出動】同聯隊は高射砲隊(砲弾は五〇〇〇メートルの高さに達した)と照空(しょうくう)隊(高度八〇〇〇メートルを照らす照空灯と飛行機の爆音をとらえる聴音機とを備えている)より成っており、新時代にふさわしい部隊として各地の防空演習にも招かれて参加し、上海事変、満州事変がおこると出動を命ぜられた。平時は常設部隊とし、戦時には防空下令・臨時編成下令・動員下令等に原隊として、また動員担任部隊として幾多の高射砲部隊を編成し、その母隊として貢献するところ大きかった(『高射砲第一聯隊概史』及びその『外史』)。【米津浜射撃場】射撃演習場は浜名郡新津村米津浜(現当市米津町)に在った。設置のさいには漁業の賠償金配分について地元新津村と篠原・白脇・五島・舞阪等の各町村との間に確執が生じたり、また若林村より射撃場に至る道路工事の負担額で地元新津村と浜松市との間に紛争が起きたりしたが、県の奔走で円満解決をみた(射撃場の完成は昭和三年三月、『浜松新聞』)。現在「高射砲兵之碑」が和地山公園にある。なお明治四十四年三月海軍水雷学校無線電信所が海老塚に設置されている(大正四年十月大字鴨江に移転)。
聴音機