【大正十五年】これよりさき、浜松郊外の三方原に爆撃を専門とする飛行第七聯隊が設置されたのは大正十五年の九月であった。三方原は、陸軍が大正八年に第一次世界大戦後の空軍の発達に対処するため、フランス将校を招いて(浜松では学童たちがフランス国歌を合唱し駅頭に迎えた)、まだ開拓の進んでいなかった原野を天恵の飛行場として、臨時飛行場を開設したという由緒ある土地でもあり(この年新居町中之郷大正浜へ海軍の臨時航空術練習委員新居射撃場が新設されている)、今この地に飛行第七聯隊(東京府立川飛行第五聯隊において大正十四年編成された)が移駐されることとなったのである。都市が軍隊の駐屯地を持つということは都市としての面目でもあったので、新鋭飛行聯隊の設置は市民の歓びであった(雑誌『文化の浜松』)。歓迎に出た一万五千の市民ははじめて見る七台の大型の爆撃機(双発複葉五人乗、仏ファルマン製)が百八十万坪の新飛行場につぎつぎ着陸するのに目を見張った。【爆撃隊】隊は軽・重爆撃隊と練習部隊に分れ、機種には軽爆撃機と重爆撃機の二種があり、大格納庫・飛行機工場・写真通信講堂・爆弾投下講堂等の施設があった。爆撃機も昭和二年から国産に変わり、重爆撃機は七名の乗員と千キログラムの爆弾をのせ速力一時間に百六十キロメートル、航続時間八時間という性能をもっていた。【満蒙出動】部隊編成も完結(四個中隊七〇機)し、五年の満蒙へ示威の初出動につづき翌年の満州事変には満州へ派遣され各地で活躍した。その後帰還したが日中戦争・ノモンハン事件と打ち続く大陸の戦火に出動の機会も多くなった。そのため部隊の再編成も行なわれ軽爆撃隊は鉾田に移り、新しく落下傘部隊の練習部が設けられ、名称も飛行第七戦隊と改まり、機種も新鋭の九七式重爆撃機が配属となった。【昭和八年】また隊内に練習部隊を分出し、搭乗員の養成と爆撃の運用研究を併せ行なうこととなり、八年には隣接地へ陸軍飛行学校を開校した。こうして高射砲第一聯隊・飛行第七聯隊・さらに飛行学校の設置となり、日曜日や祭日には町々に軍服があふれた。七年発刊の『浜松郷土読本』(浜松市教育会発行)は「全国に数の少ない攻防二種の聯隊が此所に在ることは我が郷土の誇である」とのべている。