商業の発展 市況の概況

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 大正から昭和初期へかけて浜松市の商業は、今までにない躍進をとげた。【交通 工業】その原因について『浜松市史』(大正十五年発行)は「浜松が東京・大阪の中心に在って交通至便地方広濶(こうかつ)にして商業上最も重要な位置に在った」のは勿論だが「我が浜松の商業は工業より来るもの多く」その中心商品の織物をみると、その産額の約四割は輸出となり、六割は内地向となっている。そして内地向の六割の内一部は市内商店の販売品となって市場を賑わし、他地方へ運送するものはその代価はまた浜松市場に回収されて諸方面活動の原資となり、復製品となり、循環して市場の盛況を現出している。楽器や帽子の如きは市内で販売されるものは小部分に過ぎず、ひろく華客を全国に需めるのをもって主としている。【市街の繁華】また浜松市の工業の発展にともない、その従業員は浜松市場の好華客として市街の繁華を招来している、と述べている。しかしこれにも起伏があった。【成金時代】日露戦争後の沈滞がちの浜松の経済界がようやく好況を迎えたのは第一次世界大戦のはじまった翌大正四年の春からで、対外貿易は出超を示し、大小のいわゆる成金の続出となった。【不況時代 遠州織物】その後、大戦終了の九年には大恐慌が起り不況にあえいだが、十二年の関東大地震は関西に浜松地方の織物が進出する絶好の機会を生み、「遠州織物」の銘をもって取引される端緒となった。これは織物の例だが、その他楽器・ベニヤ・傘(かさ)・足袋(たび)・木工品・織機の販売高もこのころから増加するようになった。【恐慌時代 好況時代】昭和へ入り恐慌時代を迎えると、財界は萎縮し失業者は続出し社会不安がつのったが、七、八年ごろから十二年へかけて満州事変を契機とする軍需工業の好況によって、織物以外にも織機及び機械類・楽器・氷砂糖・帽子等の生産額の増加を来し、これにともなって目ざましい商業の発展となった(浜松中央料理業組合の芸妓線香売上高は毎月増加を示し、昭和七年四一万本に対し翌八年は四八万本で一三%の増加があったという)。【整縮時代】しかし戦争が始まり、その長期化にともなって商業の整備圧縮も強化されていった(『浜松発展史』)。