機械工業では、以上の他に特殊なものとして飛行機の製作があった。【福長浅雄】福長浅雄(浜名郡飯田村出身)によって福長飛行機研究所が天竜川の河原を飛行場(滑走路南北五〇〇メートル)として掛塚に設立されたのは大正八年であった。若い時から飛行機には興味を持ち、父とともに兵庫県で製材業を営んだが、フランスから飛行機を輸入して自ら操縦、やがて九年に第一号機「天竜一号」を製作し、翌十年に浜松地方有力者等の支援で福長飛行機製作所(社長長谷川鉄雄)を設立、研究所時代を含めて十機の旅客機を完成したが、十一年十月にはイタリア製エンジン(三〇〇馬力)を積載した複葉の六人乗国産旅客機第一号(天竜十号)を完成した。製作費は三万六千円、東京大阪間の定期飛行の許可を申請したが、許可にならなかったという。昭和七年三方原台地に移転し株式会社浜松飛行機製作所となり、軍用機や新聞社機等の修理を行なって終戦まで存続した(木下善寿「長谷川先生と福長飛行機」『長谷川鉄雄先生』誠心学園。弟四郎も飛行士、関東大震災の折に「天竜七号」を操縦して公文書、信書の輸送にあたった。大正十五年八月飛行中事故死)。