河合楽器

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 【河合小市】また技師長として山葉寅楠を援け、日本楽器株式会社の発展に尽してきた河合小市(浜松上新町明治十九年一月生、昭和三十年十月没、七十歳)が独立して河合楽器研究所(当市寺島町)を設立したのは昭和二年八月であった。河合のあとを追い日楽を退社した七人の人々の協力もあって、四年六月には河合楽器製作所と改名、日本楽器とならぶ楽器会社に成長していった。その他に七年以降には日本楽器や河合楽器に関係した人々にであったより、千代田・遠州・富士・浜松・三葉等の楽器会社が生まれたが、その生産額はわずかという(大野木吉兵衛「浜松地方における洋楽器工業の変遷」『遠州産業文化史』)。こうして発展した楽器産業も他産業と同様に、戦争勃発とともに飛行機部品・グライダー・プロペラ・燃料補給タンク等の軍需品生産に転換したが、この間も日本楽器・河合楽器両社では楽器製造技術保存のための努力が続けられた。
 
(表)楽器生産額の趨勢
年次生産額
昭和元年1,605,084円
〃5年3,202,000 
〃7年2,993,000 
〃10年4,983,941 
〃12年4,566,437 
〃15年2,393,858 
〃16年2,645,400