これについてはすでに『浜松市史』(大正十五年発行)が小山みい(一般にはみゑ)について触れ、「性機織を好み技又衆に秀でたり(中略)鋭意木綿織物の改良に心を注ぎ、工場を建て、工女を雇ひ、数名の弟子をも養成して製造と販売とを営むに至れり。これ我が遠州織物の広く世人に知らるゝの初なり」と述べ、この刺激をうけて「明治二年佐藤一色に於て初めて工場組織を以て機業を開始せるものあり」と説いている。もっとも、このような新しい動きはすでに天保年間に入野村に始まってはいるが(「変化抄」『浜松市史史料編四』、『浜松市史二』)、佐藤一色村(当市佐藤町)の場合は浜松に隣接するという地の利を得て遠州織物の発展に寄与するところが大であったことに相違があった。