佐藤一色の織物工場 永隆社

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 【磯部繁蔵】伝えによると、佐藤一色の磯部繁蔵は小山みいの弟子であった妻女とともに明治元年に織手娘四名を抱え(一名は士族の女だったという)、これを養女として自宅に住まわして綿布を織らせた。家庭工場的な経営であったが採算が成り立つのをみて、養女とした織手娘たちにも村内に家を持たせ己れと同様な方法で織布業をはじめさせた。それのみならずさらに身寄りのものにも奨めたので、近村にもこれに倣いこのような工場組織の織布業をなすものが増していったという。零細な企業ではあったけれども、親戚・近親者の集りであるところから、互に助けあい経営に専念することができた。こうして同業者が多くなると、互の無用の競争を防ぎ粗製乱造の弊を正すために蒲の鈴木初蔵をはじめ佐藤一色の磯部繁蔵・磯部関十郎(山本又六『遠江織物史稿』)・次広仁吉・美和鉄治などが主唱者となって、組合を作るにいたった。いわゆる申し合わせの組合ではあったが、そうした相互扶助もその精神の現れであった。【鈴木初蔵】明治十二年その名を永隆社と呼び、浜松地方最初の織布業者の連絡機関で馬込川東岸地帯における織布工業発達の原動力となった(蒲神明宮内小山みい記念灯籠「銘文」)。なお、鈴木初蔵(安政六年九月長上郡神立村生)は初代永隆社社長、木綿商人として駿豆方面に販路を拡張し、のちマンボー(万棒)として知られた(『遠江人物誌』)。