つぎに二俣方面であるが、ここには政府の紡績奨励政策の一環として、洋式紡績工場(豊田郡二俣村)が明治十二年十二月に設立された。その建設には父佐平治の『活法経済論』の影響をうけた岡田良一郎の力が大きかったという。社名を遠州紡績株式会社(社長竹山謙三)と称し、明治十七年に操業開始、二十一年には年額四万三千五百五十貫(全国二〇社紡績会社の二・七%)に達した。これも新時代にふさわしい試みであったが、関西方面に発達した大資本による最新式紡績機に押されて、二十六年にはわずか全国紡績会社の〇・一四%となり、同年解散した。同社は翌二十七年に工場を宮口に移し遠州紡績合資会社として再発足したが、成績振わず日露戦争後に廃業した。なお、この会社の綿花は笠井の綿花商山下重平が取扱い、岡崎商人から購入し、豊橋を経て浜名湖を渡り、浜松から馬で運んだという(山本又六『遠江織物史稿』)。
臥雲式紡績や遠州紡績株式会社の製造した紡績糸は従来の農家の手紡糸とくらべて良質であり、明治初期において遠州織物の生産額を増加させる一助となったことにその意義があったといえよう。なお遠州地方の綿作は輸入綿の使用により衰微してしまう(『中ノ町村誌』によると大正二年実綿二〇反があるのみであった)。