これらの新しい時代にめざめた笠井商人と呼ばれた人々が二十人ほど集まり、明治十四年笠井に組織された西遠産業社を母体として、今まで笠井稿とか河西縞(天竜川の西岸の意味)とか地方的な名称でしか呼ばれなかった遠州織物を、「当国ニ生産スル綿太物類ト諸国ノ同品ニ富タル地方トニ於テ之ヲ購求シ諸国ノ該品ニ乏シキ地方ニ販売シ、一ハ以テ国家ノ有無ヲ媒介シ、一ハ以テ自己ノ営業ヲ拡張」(太物商物産社「成立趣意書」)を目的として、笠井村に太物商物産社の設立をみたのは十五年であった(『遠州輸出織物誌』は十六年三月とする)。こうして太物類の購入と販売との二方面に力を注ぐこととなったが、十八年の笠井の大火で罹災し解散している。二十年になると組合設置の要望がおこり、浜名・敷知・長上の三郡にひろめ浜松の木綿商人たちも加わり笠井村に西遠太物業組合(組合長加藤平四郎)の設立となった(『遠州織物発展史』『遠州輸出織物誌』『浜松商工会議所五十年史』は明治二十一年とする)。当時(明治二十年)の織機台数八百三十台、産額二十五万反であった。